学校に行く意味を検討する枠組み


荘加 大祐(Daisuke Shoka)
学校に行く意味を検討する枠組み

「大学はオワコン」

「留学は金と時間のムダだ」

「MBA(笑)」

火事と喧嘩は江戸の華といいますが、インターネットの華は学歴をディスることです

炎上狙いの誰かさん(高学歴)が、特定の学歴を強めの言葉でディスる。それに食いつかずにはいられない学歴エリートが、あーでもない、こーでもないと反論と誹謗中傷を繰り広げる。日本のインターネット界では、もう2,000年くらいこのしょーもないやりとりが繰り広げられています。

で、僕もブログ始めたわけじゃないですか。「今日も日本は平和だな」と、このやりとりを眺めている場合じゃない。同じアホなら踊らな損なので、僕も踊りたいと思います。

というわけで、以下の3つの学校について、行く意味があるかを検討したいと思います。他にもやるかもしれませんが、とりあえず僕が経験のあるものに絞っておきます。

  • 海外の語学学校
  • 大学
  • 大学院留学(非MBA)

で、いきなり結論から始めると本当に炎上狙いの誰かさんになってしまうので、とりあえず検討に使う枠組みを見てください。

検討の枠組み:全体像

とりあえず、こんな枠組みで個々のケースを検討したいと思います。

学校に行く意味を検討する枠組み

何かをやるかどうかを決めるときには、コストパフォーマンスで判断するのが鉄板です。というわけで、学校のパフォーマンス(学校に入り、通うことで生まれるメリット)と、コストを上のように分解しました。

では、順に説明していきます。

メリット①-②:実用スキルと教養

学校のメリットとして最も分かりやすいのは、能力向上です。

学校とは何かを学ぶ場所です。当然、学んだ結果として、僕たちには何らかの変化が起こる。それは「知識の増加」、「スキルの上達」、「経験の蓄積」、「精神的な成長」、「資格の取得」など、さまざまなものがあります。これらをひっくるめて「能力向上」と呼ぶことにします。

ただ、「能力向上」ではざっくりしすぎていて扱いにくい。そこで、この能力向上を大きく2つに分けます。判断基準は「お金につながるか、つながらないか」です。

ここからは、お金につながる能力向上を「実用スキル」、お金につながらない能力向上を「教養」と呼ぶことにします

実用スキルで最も分かりやすいのは、「特定の学校・学部を卒業していることが取得要件になる資格」です。たとえば、医師免許は医学部生でなければ取れません。そして、この資格はお金になります。

他にも、「英語」や「プログラミング能力」などは実用スキルと呼べます。これらの能力は、明らかに労働市場で需要があります。もちろん、一定の水準を超える必要はありますが。

反対に、教養の代表例は「文学」です。シェイクスピアに詳しいことは、現代社会では一銭にもなりません。

もちろん、「教養を教える人(例:文学部の教授)」になれば教養もお金になるわけですが、これを認めてしまうとすべてのことが実用スキルになってしまいます。よって、これは考えません。

断っておきますが、僕は「教養はメリットではない」と言っているわけではありません。「教養と実用スキルは別のメリットとして扱うべきだ」と言っています。

お金はすべての人にとって死活問題です。よって、ある学校に行く意味があるかを検討するときに、そこで学べることが実用スキルなのかは大きな問題になります。

一方、教養が学べるかどうかはそこまで大きな問題にはなりません。教養を学べば人生が豊かになるかもしれませんが、「人生が豊かになる」という言葉の意味は人によって違うからです。

もちろん、実用スキルと教養の線引きをするのはとても難しい問題です。先ほど僕は「文学はお金にならない」と言い切りましたが、人によっては「文学を学ぶことによって人間としてのわびさび的なサムシングが養われ、それは社会人として必要な能力だ」とか、ワケの分からないことを言う人もいるのです。ただ、僕がワケが分かっていないだけで、それが正しいのかもしれません。

まあ、このあたりの検討は個々のケースで行えばいいことなので、一旦ここまでにしておきましょう。まとめると、学校では2つのことが学べます。実用スキルと、教養です。まずは、この2つをメリットとしてカウントしておきましょう。

メリット③:シグナル効果

学校のメリットその③は、シグナル効果です。

例として、東大や京大などの偏差値の高い大学を考えてください。これらの学校には、学校の中で何をしていたかに関わらず、「その学校にいた」というだけで人としての信頼・説得力がアップする効果があります。これをシグナル効果と呼ぶことにしましょう。要するに、レッテルとかブランドのことですね。

この効果は、「入るための競争の激しさ」に比例します。「入るための競争に勝ち抜いた」ということが、シグナル効果の源泉だからです。逆に言えば、誰でも入れる学校には、シグナル効果はありません。たとえば、語学学校はお金さえ払えば誰でも入れるため、シグナル効果はゼロです。

一部の組織やコミュニティには、このシグナル効果を持っていないと入れません。たとえば、有名大学卒のほうが就職に有利なのは説明するまでもないでしょう。また、僕の友人が今MBAに行っていますが、その理由は「今の会社で昇進するためにはMBAが必須だから」です。こんな会社もあるのです。

こんな感じで、「XX大卒」といったレッテルを持っていないことには開かない扉が世の中にはあります。これを「学歴差別」と呼ぶかは好きにしてもらったらいいです。今回はその議論はしません。とにかく、全員の「人となり」を丁寧にチェックしている暇はない関係で、学歴は人を見分ける便利なシグナルとして使われています。この効果を、学校の3つめのメリットとしておきます。

メリット④:人脈

学校のメリットその④は、人脈です。

学校というのは「利害関係のない、似たもの同士が、長時間を一緒に過ごす」という、非常に特殊な空間です。こんな空間は他にありません。その結果として、同じ学校に通った者の間には、非常に強い人間関係が生まれます。これが人脈です。

人脈は、さらに大きく2つに分けることができます。

1つめは、同級生との関係です。同級生が一生の友達になることや、同級生で結婚することはよくあります。これはどんな学校にも存在する人脈ですが、積極的にこのメリットを活かすことも可能です。たとえば、「エリートビジネスマンと結婚したいので、MBAに留学する」という考え方です。婚活としてのMBAですね。

2つめは、同窓生(学年は違うが、同じ学校を卒業した人)とのコネクションです。コネがあると何かと便利なことが多いですから、これは大きなメリットです。

これの最も有名な例は慶応大学です。「三田会」という名前を聞いたことがあるでしょう。これは慶応大学の卒業生が作るグループのことです。早稲田大学なら「稲門会(とうもんかい)」です。一部の大企業の中には三田会や稲門会が存在しており、色々と便宜が図られることが実際にあるそうです。

私立の中高一貫校に通うことのメリットの1つにも、人脈が挙げられます。青春を共に過ごした友達が、社会人になった後も同じレベルで大勢固まっているというのは、中高一貫校に特有のメリットです。

実際、僕の周りの開成や灘などの卒業生は、今でもガッチリ人脈ネットワークでつながっています。一方、僕は岐阜県の多治見北高校という公立高校の出身ですが、東京では多治見北高の出身者はメタルキングよりもレアです。見つけたら毒針で刺したいと思っていますが、見つかりません。

この辺にしておきましょう。というわけで、人脈が学校の4つめのメリットです。

メリット⑤:その他

ここまで説明してきた4つのメリット以外のメリットは、一旦、すべて「その他」としてまとめることにします。あまり多くなっても分かりにくいですからね。

この中には何が含まれているかというと、たとえば、「学生という身分」というメリットがあります。

普通、二十歳を過ぎた大人が働いていなければ「ニート」として社会から蔑まれるわけですが、「学生です」と言えれば胸を張れます。学校には、身分保証機関としての役割があるわけですね。

海外の大学院留学をする人の中には、このメリットを狙っている人が結構な割合でいます。いわゆる大人の夏休みです。

あとは、高校生が大学に進学する大きな理由もこれでしょう。「よく分からんけど、とにかくまだ働きたくないから、大学受験」というのは、 受験の大きな動機であるはずです。

他にも、学校に通うメリットは細かいものがいくつかあるでしょう。それらはこの箱に入れておきます。

コスト

学校に行く意味を検討する枠組み

次にコストですが、こっちは簡単です。さっさと終わらせましょう。

まず、コストは大きく2つに分けることができます。労力と、金銭です。この「労力」は時間とエネルギーを足したものだと考えてください。要するに、どれくらい大変なのかという指標です。

労力はさらに、「学校に入るための労力」と、「学校に通うための労力」に分解できます。

入るための労力で最も分かりやすい例は、大学受験でしょう。偏差値の高い大学に合格しようと思えば、とてつもない労力が必要です。

通うための労力は、学校がフルタイムなのかパートタイムなのかで考えると分かりやすいでしょう。働きながらでも通えるかどうかです。仕事をやめてフルタイムで学校に通うというのは大きな決断ですから、人によってはこの要素が意思決定要因になります。

最後に、金銭はそのままの意味です。ただ、1つ注意しなければならないのは、単純に「学校にいくら払う必要があるのか」だけを考えるだけでは足りない点です。フルタイムの学校に通う場合、その学校に行かなければ代わりに働くことができます。つまり、「学校に行かなければ貰えたお金」が存在することになります。これを専門用語で「機会費用」と言いますが、ここまで考えておかないと判断を誤るので注意してください。

では、枠組みの準備ができたので、個々の問題の検討を始めて……いく前に、もう1つ、大事な視点があります。

感情の問題

最後に残っている視点とは、感情の問題です。

ここまで説明してきた話はすべて理屈の世界であり、言葉にして比較検討することができます。でも、そうやって検討した結論に誰もが納得できるかというと、そういう話にはなりません。人間は感情の生き物だからです。

実際、僕はよく「留学したほうがいいと思うか」という相談をされるのですが、このときにここまで説明してきたような枠組みは使いません。僕の答えはこれだけです。

留学したいと思ってしまったなら、留学したほうがいいよ。留学するべきかを検討するのはやめて、英語の勉強をしたほうがいい。応援するよ

なぜこんな乱暴な答えになるかというと、「留学したい」という思いは呪いだからです。この呪いは、留学しないかぎり解けない。理屈で検討しても意味がないのです。どれだけ理屈で「留学する意味はない」と自分を説き伏せたところで、いつかは呪いが首をもたげてきます。

もちろん、この呪いにはたいした実害はありません。たまに胸の奥がチクチク痛くなるくらいです。でも、そういうチクチクは、叶わなかった初恋とか、そういうのだけにしておくべきだと思うんですよね。留学みたいに自分が行動すれば何とかなることは、呪いを解いてしまうのがいい。

そんなわけで、「行きたいなら、行くしかない」という、身も蓋もない話があるわけです。

ただ、この話はこれっきりにしておきます。この感情論がありだって話になっちゃうと、「最後は、行きたいかどうかだ」というしょーもない結論になっちゃって、ブログのネタとして成立しなくなっちゃいますので。これ以降は、理屈で検討したいと思います。

では、次回はこの枠組を使って「語学留学をするべきか」を検討したいと思います。